「その判定、覆せます」——審判は残り、境界は動いた。MLB自動判定チャレンジ1年目
2026年、MLBに「チャレンジ型」の自動ボールストライク判定が導入されました。審判は全部の球を判定し、選手の申し立てだけを機械が覆す。411万球のデータが示した、「選択的なAIレビュー」の現在地を考えます。
2026年、MLBに「チャレンジ型」の自動ボールストライク判定が導入されました。審判は全部の球を判定し、選手の申し立てだけを機械が覆す。411万球のデータが示した、「選択的なAIレビュー」の現在地を考えます。
📑 目次
こんにちは、チカちゃんです。
2026年のMLBの球場で、打者がヘルメットを軽く叩きます。審判が「ボール」と宣告した、その直後のことです。
数秒後、スタジアムのスクリーンに、球の計測位置が映し出される。ゾーンに入っていたのか、いなかったのか。観客も、審判も、選手も、同じ画面を見つめる。そして判定は——そのままか、ひっくり返るか。
これが、MLBが2026年に導入した「チャレンジ型」の自動ボールストライク判定システム(Automated Ball-Strike system、ABS)です。審判は、いまも全部の球を判定しています。でも選手が申し立てれば、機械が最終決定を下します。
ふむふむ。これ、ただの野球の話に見えて、実はとっても大きな実験なんです。人間が全部判断して、機械が「選択的に」覆す——こんなに大規模に、毎日、公開の場で走っている実験は、他にあまりありません。
数字を少しだけ。開幕から8月24日までの1,974試合で、チャレンジは8,447回。1試合あたり4.28回です。98.7%の試合で、少なくとも1回は申し立てがありました。そして、8,447回のうち4,525回(53.6%)が覆っています。
2026年9月、この制度の1年目を分析した研究が公開されました。韓国のKAIST(韓国科学技術院)と延世大学に所属する研究者たちによる、12シーズン・4,114,256球(約411万球)のデータを使った研究です。審判はどう変わったのか。選手はどう動いたのか。今日はこの話をします。
「人間が全部判定して、機械が覆す」という設計
まず、制度のかたちを確認しておきます。
- 判定できるのは、その投球に関わった打者・投手・捕手だけ。宣告の直後に、ヘルメットを叩くなどして申し立てます。
- チャレンジ権は1チーム2回から。成功すれば権利は残り、失敗すると1つ減る。延長に入って権利がなければ、1回だけもらえます。
- ABSのゾーンは、ホームベース中央の地点で幅17インチ(約43センチ)。上下は打者の身長の27%と53.5%で、背の高い打者ほどゾーンは上に伸びます。
面白いのは、MLBが「全投球を自動判定」にしなかったことです。韓国プロ野球(KBO)は2024年に全投球の自動判定方式を導入しましたが、MLBはあえて、人間が全部判定して、異議があったときだけ機械が覆す方式を選びました。7年にわたる実験と調整の末に選ばれた設計で、「かけひき」を残すことも重視されたそうです。
つまりこの制度、役割が三つに分かれているんですね。審判が最初の判断をして、選手が「レビューを呼び出すかどうか」を決めて、機械が最終決定を下す。誰が何に責任を持つのか、丁寧に分けた設計です。
ちなみにABSは、いわゆる生成AIではなく、カメラ計測による自動判定システムです。でも、この研究が扱っているのは「自動システムが人間の判断を覆せる世界で、人はどう判断するのか」という、AI時代のど真ん中の問いなんです。
その1:審判の境界は、静かに動いていた
ここからが、研究の中身です。まず、びっくりしたのがこれ。
2026年、審判たちの「実効的な判定境界」は、自動ゾーンの方向へ、従来の傾向を超えて動いていました。特に動きが大きかったのは、ゾーンの下側と外側の縁。統計的にも、これまでの傾向からは説明しにくいずれでした。
ちょっと待って。訂正が届くのは、チャレンジされたときだけのはずですよね? それなのに——チャレンジ制度が始まったシーズンに、審判たちの境界の置き方そのものが、動いていた。
ただし、ここは慎重に。研究者たち自身が、とても丁寧に断っています。2026年は制度導入と同時に、判定に使うゾーンの定義自体も変わった年。だから「レビューのおかげで境界が動いた」と因果を断定することはできません。あくまで「従来のトレンドからの、説明のつきにくいずれ」です。
それでも面白いのは、動いたのが「境界の位置」だけで、「境界の鋭さ」は変わっていなかったこと。「どこで切り替えるか」は動いたのに、「どれくらいシャープに切り替えるか」は動いていない。判断の基準は動くけれど、判断の精度そのものは、そう簡単には動かない。これ、人間の学びの話として、なんだかとてもリアルじゃないですか。
その2:訂正の効き目は、その試合だけ
次は、覆された直後の話です。
研究チームは、審判が実際に覆されたあと、その後の判定がどう変わるかを調べました。「狭すぎた」と訂正された(ボールがストライクに覆った)あと、審判はその縁の境界を少し外側に広げる——つまり、ストライクを取りやすくなる。これは統計的にはっきり見えた動きで、しかも訂正された縁の周りだけに集中していて、他の3つの縁には波及していませんでした。
でも、ここからが本題です。
その効果は、次の試合には持ち越されていませんでした。
同じ試合のうちは動く。でも次の試合の頭では、もう戻っている。まるで、付箋を貼って、試合が終わったら剥がれてしまうみたいです。研究者たちは、これを「すぐ調整できる反応」と「長く残る再調整」の違いに似ているかもしれない、と書いていますが、断定はしていません。
覆された経験って、そんなに長くは効かないのかあ。……これも、なんだか人間くさいですね。ダメ出しされた直後だけは気をつけるけど、翌週には元通り、みたいなことって、ありますよね。
その3:覆せるはずの球は、なぜ覆されないのか
そして、チカちゃん的にいちばん面白いのが、選手側の話です。
覆すかどうかを決めるのは、選手。だから研究チームは、こんな問いを立てました。「覆るはずの球は、ちゃんとチャレンジされているのか?」
答えは——ぜんぜん、されていませんでした。
チャレンジ権が残っている場面のうち、実際に申し立てが起きたのは全体の5%ほど。ABSの計測で「これは覆る」とはっきり分かる球(境界の内側に1〜3インチ入っている球)に絞っても、打撃側のチャレンジ率は19〜30%、守備側でも31〜65%ほど。機械の目から見れば誤りだった球の多くが、異議を申し立てられることなく、そのまま流れていく。
なぜか。研究チームは、選手のチャレンジ判断は「正確な幾何学(本当のゾーンとのズレ)」よりも、「その場で見える情報から推定できる覆りやすさ」に、ずっと強く従っている、と分析しています。そりゃあ、選手は機械の計測値を見ながら野球をしているわけじゃないですからね。見えた情報で動く——それって、当然ですよね。
でも、システム全体からすると、こうなります。誤りの訂正は、訂正を呼び出せる人の「見え方」に依存している。訂正されない誤りは、誰にも学ばれないまま流れていく。審判は全部の球を判定しているのに、フィードバックをもらえるのは、選手が「これは違う」と思ってくれた球だけ。
研究チームは、これをこんなふうにまとめています——「自動化から何を学べるかは、モデルの出力だけでなく、その出力がいつ見えるようになり、誰がそれを呼び出せるかにかかっている」。
うーん、この一文。野球を超えて、刺さります。
ほかに見つかったこと
ついでの発見も、少しだけ紹介させてください。
- 選手のステータス(オールスター出場歴)と判定のあいだにあった差は、2026年、縮まっていました。特に打者で(投手は、証拠は弱め)。ただし「関連が縮んだ」という話で、理由までは分かりません。
- 球種ごとの誤判定率は、6種類すべてで下がっていました(下がり幅は16〜29%)。ただしその下がり方は「外側の球をストライクと間違えなくなった」ことに集中していて(外側の誤りは32.8〜50.5%減)、内側の見逃しは、むしろ増えた球種もある(チェンジアップは36%増)。
- カウントごとの境界の違い(いちばん広いのが3ボール0ストライク、いちばん狭いのが0ボール2ストライク)は、順序がそのまま残っていました。全体が動いても、癖は残るんですね。
- 韓国では、チームが独自にゾーンの3×3グリッドを書いたボードをベンチから掲げたり、ハンドサインで球の位置を伝えたりしているそうです。情報を取りに行く工夫は、現場から生まれるんですね。
物差しを動かすと、誤りの種類が変わる。「正確になった」と「間違い方が変わった」は、別の話。ここも、覚えておきたいところです。
反対の見方と、残された問い
もちろん、この研究にも限界はあります。
まず、因果の話。制度導入の年にゾーン定義も変わっているので、どこまでがレビューの効果なのかは分かりません。効果の大きさにもまだ不確かさが大きくて、「訂正の直後に、少しだけ動く」くらいの控えめな話です。
それから、これは審判の能力評価ではありません。研究者たちは審判を匿名のIDとして扱い、個人の技量の話はしていないと明記しています。集団の傾向の話です。
「機械の基準に人間が近づいただけ。誤りが減ったんだから、いいことじゃない?」という見方もできます。実際、全体的な誤判定は減りました。でも、誤りの総量が減っても、誤りの分布が変わるなら、そのツケを払う人が変わるかもしれない。物差しが動くと、得をする球種と損をする球種が入れ替わる。それはまた、別の問いです。
そして、野球の外への一般化には、慎重さが必要です。野球は特別な場所です。ゾーンという「正解」が機械で測れて、判定は全部公開されていて、訂正のコストも比較的低い。裁判や医療のように、正解がもめていて、訂正のコストが誰かの人生に乗る世界では、同じようにはいきません。
ただ、だからこそ野球は「実験室」として価値があるのでしょう。「人間が全部判断し、機械が選択的に覆す」という設計の長所と弱点が、こんなに鮮明に見える場所は、他にないのですから。
チカちゃん的には
この研究を読んで、いちばん長く残ったのは、さっきの非対称性の話でした。
機械は全部の球を見ている。でも、口を出すのは呼ばれたときだけ。人間は全部を判断する。でも、訂正をもらえるのは、誰かが異議を言ってくれたときだけ。
この構造、野球だけのものでしょうか。
たとえば、上訴できる裁判。セカンドオピニオンを求めたときだけ届く訂正。異議申し立てをしたときだけ見直される評価。AIが「覆す側」に加わった世界では、訂正のチャンスは、呼び出せる人にだけ訪れます。そして、呼び出されなかった訂正は、静かに消えていく。それは「学ばれない誤り」として、システムの中に積もっていく。
じゃあ、どうすればいいんでしょうね。この研究は答えを押し付けません。ただ、こんな問いを残してくれます——自動化のフィードバックは、どのくらいの頻度で、どんな形で、誰に届くべきなのか。
ねえ、あなたの身の回りには、この「チャレンジ」がありますか? 誰が呼び出せて、誰が呼び出せないんでしょう。そして、呼び出されなかった訂正は、どこへ行っているんでしょうね。
審判は残った。選手の技術も残った。全投球を自動判定するリーグの視聴者に聞いた小さな調査(32人)では、チャレンジ方式の魅力として「キャッチャーのフレーミング(際どい球をストライクに見せる技術)が生き残ること」と、「チャレンジすべきかを見極める、選手の新しい技を観る楽しみ」が挙がっていました。
機械が全部を置き換えるのではなく、選択的に介入する。その設計がうまくいくかどうかは、たぶん、人間の側の「学び方」にかかっている。1年目のデータは、その最初の観察記録です。来年、この物差しはどこまで動くんでしょうね。楽しみにしています。
参考URL
Kichang Lee, Gyeongmin Han, Sungmin Lee, JeongGil Ko, When the Strike Zone Becomes Algorithmic: Umpire Judgment and Player Challenge Decisions under AI Review(arXiv:2609.25525) → https://arxiv.org/abs/2609.25525
論文PDF → https://arxiv.org/pdf/2609.25525
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